作曲家と演奏家についての考察
「だがっき」と「おと」の庵 に楽譜に関しての興味深い話がありましたので引用いたします。
譜面というのは音楽の伝達手段としての一種の共通言語といえる。例えば、我々の周りで一般的によく使われる西洋音楽を基本にした五線譜もそうであるし、ギターやベース初心者用のTAB譜、邦楽の楽譜やミュージック・コンクレートなどの譜面など、いろんなローカル・ルールはあるものの、時間を越えて他人に伝えるための手段の一つであることは間違いない。これまでの歴史の中での過去の楽曲を楽しむことができるのも、この楽譜のおかげが大きい。
ただし言語でもなんでもそうだが、記号に変換されたものがすべてを伝えることは不可能だ。五線譜にしたって伝えるものとしてはかなりの情報量が欠落している。逆にそれを補うために楽譜以前の共通認識を持つなり、自己の中で補間するなりしないと極端な劣化コピーにもなりかねない。rn以前にシンセサイザー・クロニクルの最後にも少し触れたが、打ち込みにしても歌にしてもピアノを弾くにしてもこの作業なしに「音楽」として「楽しめる音」を作るのは難しいと思うのだが、気づかないうちには結構おろそかにされやすい。
以上 引用終わり
「楽典と平均律」というのは壮大なプロトコル(決まりごと:ルール) と考えることができます。 さんたぱぱさんはそれを「共通言語」と表現されています。
自然界には ドレミファソラシドなんていう法則はどこにもなくて、人間が勝手に純正音階を考えて、バッハが転調が楽なように 少しだけいじって平均律を作ったというのは有名な話です。
その平均律の権化がピアノなわけですが、そんなことはどうでもよくて、重要なのは、「楽譜=楽典」というプロトコルは、通信のプロトコル(例えばTCP/IP)のように100%全てを定義付けていない というところがミソなんだと思います。
「音楽」に係る二つの役割、「作曲家」と「演奏家」について考えると、
作曲家と演奏家という2種類の職業が生まれたのは、ここらへんが「あやふや」だたからじゃないかな。。 これが、アーティキュレーションを含め、完璧なまでに再現可能な規則を作っていたら、演奏家というのは、あくまで再現装置としての役割であり、ただの職人として扱われていたことでしょう。
そして、その職人としての演奏家も、コンピュータの登場で全員失業という憂き目にあっていたことでしょう。 20年前に姿を消した、電話交換手とか和文タイプライタとかと一緒の運命です。
しかし、楽典は、ルールを全てプログラムに織り込めばコンピュータで完全にオリジナルを再現できるような完全なものではありません。 だから、今でも 演奏家は職業として成り立っています。
同じ楽譜でも100人のピアニストは100通りの考え方で100通りの演奏をします。でもそれは現在の法律では「同じ曲」と認知されます。
ポピューラー音楽の場合は、メロディラインが似ていれば同じ曲とみなされます。 アレンジ等によってまるっきり違う曲のように思えても 著作権的には同じ曲です。
本来であれば、演奏家は、作曲家が作った曲を自分なりに解釈をして、ある程度の共通認識を持って、自分なりに演奏として表現します。 ですから、そうして演奏された音楽というのは、唯一無二のものであり、視点を変えれば「同じ曲」ではないとも言えると思います。
例えば、楽典が全てを包括したものであったなら、「違う曲」としてカウントされていたかもしれません。
Pops系のアレンジなどは もっとわかりやすいと思います。 メロディだけだとイマイチなものも、アレンジを変えるだけで素晴らしい曲に変わってしまうし、違う曲と思うようなものにも変えることが出来ます。
まぁ、とりあえず、楽譜というのは 完全ではないけれど 素晴らしいツールであり、強力な世界共通言語であるということですね。
Rock系の方で、よく楽譜読めませ?ん という方がいます。 私もつい最近までそうでしたが、その方が天才でなければ、楽譜を理解することをマジでお薦めします。
さて、話を戻しますと、現在の「楽譜」というのは、西洋のクラッシック音楽をベースに築かれてきたルールですが、現代においては、西洋音楽だけでなく、あらゆる民族音楽も この楽典の中に押し込まれて配布されています。
ですから、それぞれの音楽のノリは全然表現できていません。 ラテン音楽の楽譜をパソコンにそのまま打ち込んで鳴らしてみると、ラテン音楽のはずが、無機質な音の塊にしか聞こえません。でも、コンピュータに打ち込んでラテン音楽を作ることだって当然できます。コンピュータで音楽を作るひと(マニピュレータ)は、楽譜の情報の他にさまざまな情報をコンピュータに入力します。 その様々な情報というのは、各シーケンスソフトによって微妙に違いますが、それを楽譜情報に追加して ノリ を再現していきます。
MIDI規格というのは、こういった楽譜以外の情報をパラメータとして定めた ある意味 「楽典拡張版」みたいなプロトコルです。
MIDI規格はもう四半世紀前ぐらいに出来た規格ですが、コンピュータ関係のプロトコルでありながら今もってまだ現役で使われているっていうのは結構スゴイことかなと思います。 ただ、MIDIでは限界があります。 せいぜいカラオケボックスの伴奏程度にしか作曲者の意図を再現してくれません。
それならば、ということで、コンピュータの進化とともに、音そのもののデータ(wave file と言います)を加工する方法が主流になってきました。 この方法だと、音そのものを「加工・編集」するため 理論的には(コンピュータが更に進化して波形をよりアナログに近い形で管理できれば) 限りなく正確に再現できることになります。
現在、いろいろなMIDI+波形加工ソフトが出回っていますが、仮にそれらのソフトが統一され、MIDI規格みたいなものになれば、そしてそれが、新たな楽典拡張版 として 認知されれば、作曲家は それらのパラメータを「発表」すれば、未来永劫再現出来るということになります。
めでたしめでたし! 作曲者は、そのパラメータを鳴らす装置が世界中にあれば、勝手に自分の作品をねじまげて演奏する所謂「演奏家」なしで作品を発表、残すことができます。 とうとう演奏家も失業ですね。。。。。
でも、「それはちょっと違うんじゃないの?」という感じがしますでしょぅ。。。ここで、「音楽」に係る二つの役割、「作曲家」と「演奏家」について考えていきたいと思います。
まずは人間は 何故音楽を必要とするのか というところから考えなくてはいけないと思います。人は、連続した音(音楽など)を聞くことによって、脳細胞が刺激されて 脳ミソがいろいろな動きをします。 例えば、とても気持ちよくなったり、哀しくなったり、ほっとしたり、眠くなったり、ハイテンションになったり、なにかを思い出したり、なにかが食べたくなったり、なにかしたくなったり。。。。 このメカニズムは、おそらくまだ解明されていないと思いますが、人間のこういった生理的なメカニズムが「音楽」の存在を意味づけているのだと思います。
「脳みそに作用する」そして「常習性がある」 この2点においては、ドラッグと一緒ですね。 ミュージシャンなどは、「ヤク中」ということになります。 なるほど、音楽で身を滅ぼす人って多いしなぁ。。。。
話がそれましたが、要は、音楽は「脳みそ」を刺激する。 しかも、刺激の仕方が様々で、人間は、その刺激を求めて音楽を聴く。 ということのようです。
それで、前エントリに書いた、演奏家は不必要なのか? という話ですが、私だけかもしれませんが、音楽を聴いて一番「いい!」と感じるときは、やはり、ライブで音楽を聴いたときです。 もちろん、CDやボロボロのAMラジオからの音楽でも時と場合によってはとても感動することがありますが、身体全体で「イってしまう」感覚を憶えるのは やはりライブです。
それでは、ライブとCDではどこが違うのでしょうか。
<ライブとCDの違い>
? ダイナミックレンジの広さの違い。 これは、一番小さい音と一番大きい音との音量の差のことです。
? 楽器或いは声の音の振動を直接感じられるかどうか。 これは、本当に違いがあるのか証明できませんが、?とも関係すると思いますが、例えば、ピアノの弦がぐわぁ?んと響いている感じが肌でわかるかどうか ということです。 私の持っているCD再生装置では さすがにそんな臨場感は出ません。
? 演奏者の「気」と聴いている人の「気」の関係 これが一番の違いだと思います。 演奏者の発する「気」が音とともにリスナーの脳みそを刺激し、刺激されて出てきたリスナーの「気」が また演奏者に影響を及ぼす。バンドの場合、プレーヤ同士の気のやりとりもここに加わります。
「音楽と気」の相乗効果の良い?例が、
・好きな女の子にギター弾き語りで愛を告白すると外したためしがない(ウソ)
・何故か、知り合いが演奏すると 良い演奏に聴こえる。?の「気」と「音楽」の相乗効果 というのが、ライブにまた行きたいと思わせるドラッグの部分だと思います。
もともとの音楽の存在意義から考えても「気」が脳を刺激するという部分において理にかなっていることだと思います。 更に、斜めに詰めて考えていくと、演奏家というのは、 「曲」と 「楽器または声」というツールを使って、自分の「気」を聴衆にぶつけて聴衆を虜にするという非常に危険な職業ということになります。
まさにドラッグの製造元と売人が一緒になったような危ない奴なのかもしれません。音楽本来の存在意義=脳に刺激を与えて楽しむ という考え方からいくと、曲などというのは単なるツールであり、 「気」の出せる演奏家が本当は一番重要なのだということになります。
演奏家の数だけ、「気」の数もあり、自分にあった「気」を出す演奏家が 「好きなアーチスト」ということなんじゃないかなと思います。 以前Bigchiefさんがコメントで残してくれた、「The Rolling Stonesの昔の曲に「Singer Not The Song」というのがあります。(このタイトルは僕のトラウマです)まぁミックジャガーぐらいになれば、そういうことになるんでしょうけど。」
Singer Not the Song。。。 この意味も、そういうことなんですね。
巷には、バンドが売れるためにはどうしたらよいか などの「ちまちま」としたHow to モノがたくさんありますが、そんなことより、まずは気功教室にでも通って、びんびんに自分の「気」を出す訓練をするのが早道だと思うんですが どうでしょうか。 そうすれば、自分の「気」と波長の合う人は 間違いなくリピータになってくれると思います。
演奏は下手だけど 集客のあるバンドというのは、なにかそういう「気」を持っているのではないでしょうか。 まぁ、演奏が上手ければもっといいんですが。。。演奏が上手くても客が集まらないのは、単に「気」が出ていないだけでしょう。 単純なことです。
またまた話がそれましたが、現代社会では、作曲家と演奏家というのは、ヒエラルキー的には、作曲家の方がエライ! ということになっている気がしますが、何度も言うように、音楽の根本から考えると「演奏家」が主であり「曲」はただのツールにすぎません。
クラッシックの世界では、指揮者とオーケストラは、大昔の名曲を使って 自分達の「演奏」を売っていますが、それは、その名曲を聴いて欲しいのではなくて、自分達の「演奏」そのものを聴いて欲しい、そしてその演奏に一番適しているのが「その名曲」だったということになるのかもしれません。(クラッシックの方々に知り合いがいないので推測です)ですから、たとえ、作曲者の意図を100%再現できるプロトコルが世の中に出来たとしても、絶対に演奏家という仕事は なくならない ということが言いたかったのです。
更に「楽譜」に関しては、ツールとして曲を使うわけですから、演奏家の自由になる部分があったほうが都合が良いので、現在の「楽譜」のルールのままで良いのかなと思います。
あと、曲というのは、音楽の中では演奏家の次に位置するものであり、メロディに発明と同様の権利を付与すべきものではないと思います。 たとえば、スモークオンザウォータのリフも、大昔にどこかの国の狩人が口笛で吹いていたかもしれません。 メロディを楽譜に展開するノウハウをもっている人が 単に誰よりも早く、音と音の組み合わせを「登録」したに過ぎないのです。
極端にいえば、音の羅列=メロディは皆で共有すべきものであり、少なくとも早い者勝ちで登録した人が未来永劫権利を主張するものでは無いと思います。せいぜい、「こんなに良いメロディがあることに気付いたお礼として」5年間ぐらいは独占的に使わせてあげよう ぐらいの感じが妥当なところではないでしょうか。
現在の没後50年まで権利があります なんていうのはボッタクリです。更に今議論されているような未来永劫の権利付与などというのは愚の骨頂です。 自由に音楽を演奏できなくなってしまったら、音楽を自然な形で活力に変えてきた人間の生態をも変えてしまうかもしれないという危機感は関係者には無いのでしょうか。。。。
長文を読んで頂きましてありがとうございました。
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